礼拝について


こちらが焼津教会の礼拝の式順です。

その説明を順次記していきます。また式順以外のことも折々に記していきたいと思います。

 

主 日 礼 拝  2020年6月14日午前10時

(招  き)

前奏

招詞

讃詠/546番

 

(悔い改め)

罪の告白/詩編51篇交読 

讃詠/545番

      

(御 言 葉)

聖書/出エジプト記23章1~5節(旧約131P)

   フィリピの信徒への手紙4章8~9節(新約366P)

祈祷

讃美/358(1~2)  

説教「心は歩み始める」 

祈祷

 

(感  謝)

頌栄/540番

使徒信条

讃美/21-512(1~2)

献金/547番

十戒

主の祈り

 

(祝  福)

頌栄/541番

祝祷

 


礼拝について① 「祈りの法則が信仰の法則」

 

古くから、教会では「祈りの法則が信仰の法則」という言葉が言い習わされてきました。「祈り」は礼拝全体のあり方を指し「信仰」は具体的なその人の信仰にある生き方、生活を表します。

つまり、その教会、そこにあるキリスト者の生き方・生活、心根はその教会の礼拝のあり方を見れば一目瞭然、ということです。教会生活をしているとこれは体験的に「ああ、その通りだ」と納得できることでしょう。

ルターは教会のしるしとして「①神の言葉の正しい説教②洗礼・聖餐の正しい執行」をあげました。どちらも礼拝においてなされることです。礼拝の佇まいが、その教会の在り方、キリスト者自身の生き方を現わすのです。

「人は礼拝するようにしか生きられないし、生きているようにしか礼拝できない」私が若いときに、ある牧師から教えられた言葉です。

礼拝は私たちの在り方そのものであり、私たちの現実そのものなのです。

この大切な礼拝について少しずつ、週報に記していきます。

礼拝について② 「生活=礼拝、礼拝=生活」

 

ウェストミンスター小教理問答の問1「人のおもな目的は何であるか」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」

人は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ、すなわち神を礼拝し神の光を受け、その輝きを反映する「神のかたち」として創造されました。人は本来、神と顔と顔をあわせて生活=礼拝、礼拝=生活として生きていたのです。しかし、ローマ書3章 23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」とあるように、罪を犯したアダムは神の御顔を避けて神の言葉から逃げる者となり正しい礼拝、生活ができなくなりました。その子のカインとアベルは主に献げものをするという礼拝をしますが、カインは正しい献げ方をせず、神の顔を避けてアベルを殺害します。同じく神の御顔を避けたアダムとエバもこの悲劇を止められません。礼拝ができないとは、すなわち正しく生きられないということなのです。

その後アダムとエバに新しい子セトが生まれ、その子のエノシュの時にこうあります。創世記4章 26節「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」人間は神を離れながらも神を求める存在なのです。

礼拝について③ 「主の名を呼ぶ」 

 

名前を呼ぶのは人間関係にとても大事なことです。古代の社会では名前はその人自身とされ、本名は一部の人にしか知らせず、対外的には俗名しか教えないということもありました。相手の名を知り、その名を呼び、相手もまた自分の名を呼ぶ、そのような名前を呼び合える関係というのは特別に親しい関係を表したのです。 

神は私たち人間の名を呼んでくださいます。十把一絡げの誰か・なにがしではなく、名を持つ一個の人格としてのあなたに神は語りかけられるのです。そして、あなたもまた主の名を呼んで神と親しく語り合うことができる存在とされています。神と人間の関係はそのような人格と人格がふれあう関係なのです。十戒の前文「わたしはあなたの神、主」とご自身の名を語られる神は、新約時代の私たちには主イエス・キリストとして御名を示し、あなたの名を呼んで、語りかけられます。礼拝式の最初に招詞があるのは、この神が呼び、それに応えて礼拝が始まることを表しているのです。

礼拝について④ 「神と共に歩み」 

 

創世記5章を開くとアダムからの系図が生きた年月には関係なく「~は生きて、そして死んだ。」という定型句で記されています。しかしただ一人エノクだけは「エノクは神と共に歩み、神がとられたのでいなくなった。」と記されます。エノクも「死んだ」のです。しかし、聖書は「神がとられた」と記すのです。信仰者の死は世でいうところの「人間、死んだらおしまいだ」という単に生物学的な意味の消滅ではないのです。その人に命を与え、その命を、定めし時に身許に召したもう神がとられる、という真の永遠の命への門なのです。地上に今はいない聖徒たちは、命を召しあげたもう神の御許にあるのです。 

逝去者記念の礼拝は時に誤解されるような慰霊祭や追悼式ではありません。今、神の御許にある天上の教会と共に地上の教会が神をほめ讃え、教会にある永遠の命の希望を証言する礼拝です。 

更にこの希望は今、教会にある人々だけの閉じられた希望ではありません。地上にある天の御国の大使館である教会によってすべての人にあまねく開かれている命の希望なのです。 

礼拝について⑤「まず第一にすること」

 

方舟で有名なノアですが、洪水後、彼が方舟から出て最初にしたことは何だったでしょうか?神の召しを受けたアブラムが新しい場所に移動するたびにまずしたことは?その子イサク、ヤコブが行く先々でまずしたことは?答は彼らは皆、まずそこに祭壇を築いたのです(創世記8章20節ほか)。その頃の祭壇は土を盛り、ノミをあてない自然石を積むという、自然の物を用いる簡素なものでした。自分が今いるところに何よりもまず第一に神に出会う場所として祭壇を築き神の前に立つことこそが重要であり、最優先だったのです。神の民はそこで祈り、犠牲動物を献げるという礼拝を献げました。これは神が自分と共にいてくださるという信仰、信頼、感謝の証でもあります。キリストにある新しい契約にある私たちは旧約時代のような祭壇はもちません。ただし今自分がいる、この場所で神と出会うという意味では霊的な祭壇を築きます。教会堂、そして自分の祈りの場所に私たちは神と出会う祭壇を築くのです。焼津教会会堂はまず聖餐説教卓から作り始めるという古来の伝統的な方法で建築されました。ここでまず神と出会うという先達の信仰の証です。

礼拝について⑥「安息日の礼拝」

 

私たちの生活そのものが礼拝的生活であるとお伝えしました。私たちはそのしるしとして神が具体的に定められ招いておられる日に礼拝を献げる者とされています。その日は創世記冒頭で第七の日が安息日として示されていますが、それが礼拝日として明確に命じられるのは出エジプトの十戒布告です(出エジプト記20章8~11節、申命記5章12~15節)。新約からはキリストの復活日である日曜日が安息日となります。日曜は創造の初日ですので、神が私たちを休ませてくださることにとどまらずキリストの復活によって新しく創造し続けてくださる日ともなりました。マタイ福音書11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」の「休む」は元の言葉では「休ませる」という意味とともに「新しい活力を与える」という意味もあることはそのことを示唆します。忙しい現代社会では、日曜主日礼拝を献げるのは容易ではありません。だからこそ私たちは祈り万事繰り合わせて礼拝に駆けつけるのです。日曜は一週間の創造の始めの日です。礼拝を毎週献げ、やむを得ない事情で休んだときにも次の礼拝を真摯に待ち望み、備えていく信仰の姿勢が私たち人間の霊と体、働きのすべてを本当に守り、生き生きとさせてくれるのです。

礼拝について⑦「アドベントの悔い改め」

 

今日からクリスマス前のアドベント(待降節)に入ります。この世に来てくださった救い主イエスのご降誕を待ち望む時です。クリスマスへの備えとは何でしょうか。様々な装飾をつけること?クリスマスプレゼント?ケーキの予約?それらは本質的なことではありません。古来、教会、キリスト者のアドベントの備えは究極的にはただ一つのことでした。それは「悔い改めの心」です。キリストは人間が招いたのではありません。人間の方の備えがあって、それからおいでになったのでもありません。罪人を救うために神の方から一方的においでくださったのです。罪人である人間を救いに招くためにおいでになった方をお迎えするのに準備があるとすれば、自分の罪を認め、このお方の前に立たせていただくこと、それだけです。「悔い改め」は旧約のヘブライ語では「立ち戻る」新約のギリシャ語では「向き直る」という言葉です。神に背を向けて、顔向けできないような生き方を「罪」といいます。この罪を持った者をキリストは迎えに来てくださいました。ご自身がその罪を身代わりに背負ってくださるお方として。私たちができることは「罪人」としての自分を認め、キリストにあって神に向き直ること、すなわち悔い改めだけなのです。これを信仰といいます。

礼拝について⑧「クリスマスはキリストの礼拝」

 

「クリスマス」は「クリスト(キリスト)」と「マス(礼拝)」の二つの語からできています。つまり「キリストを礼拝する」という意味です。ですから礼拝なしのクリスマスというのはそもそもクリスマスにはなりません。代々の教会はそれぞれの文化の中でこのキリスト礼拝の喜びを様々な形で表現しようとしました。本来はキャンドル、ツリー、クランツ、リース等はキリストのご降誕を祝い礼拝するための祈りの心の表れでした。しかし、いつしか形だけが一人歩きし、礼拝の心が失われてしまうということが起こりました。改革長老教会の先達はその危険性を弁え、一切の装飾を教会から取り除き礼拝に集中したということもあったのです。本質を見失い、見えるものに惑わされる人間の罪、弱さとの真摯な戦いを教会は経験してきたのです。焼津教会は簡素なアドベントキャンドルだけを用います。それは改革長老教会としての礼拝に集中する心があらわされているのです。世のクリスマス?と比べると、地味に思われるかもしれません。地味でいいではありませんか。最初のベツレヘムでのクリスマスは家畜小屋で飼い葉桶と干し草におられる御子イエスとこのお方を礼拝する人々でありました。御子イエスと礼拝者がクリスマスをクリスマスとするのです。

礼拝について⑨「礼拝は人を変える」

 

ご降誕の主イエスの御許に招かれてきた人々がおりました。遠い東から星に導かれてきた博士たちは、知識、豊かさ、名誉など、世の羨むすべてを持ちながら真の神を知りませんでした。近くの野原から天使に呼ばれた羊飼いたちは、自分のことで精一杯で貧しく忙しく、神を知ってはいても神がおられるという確信はありませんでした。どちらも本当には神を知らずに生きていたのです。しかし、幼子キリストに会い彼らは神の神を知る生き方が始まります。博士たちは宝を献げて幼子を拝みます。羊飼いたちは神をあがめ賛美します。彼らは礼拝するお方、賛美できる神に出会ったのです。神を拝むことは拝む者を変えます。博士たちは来たときとは別の道を帰ります。今までとは違う生き方の道です。羊飼いたちは以前と同じ野山に、しかし全く違う賛美の心で帰って行きます。礼拝の前と後で人間は変えられるのです。そしてこの神と出会う出来事は毎週の礼拝でも繰り返し起こっているのです。

礼拝について⑩「讃美」

 

俗にキリスト教は「歌う宗教」と言われます。礼拝はもちろん、祈祷会や諸集会でも讃美が歌われます。葬儀礼拝で明るい讃美歌が歌われることに驚かれる未信者の方がいます。なぜ、死の悲しみの中で歌えるのか、それは讃美歌は逝去者やそこにいる人々にではなく、命を天へと呼び出された神に向けて歌うからです。そしてそれが神にある慰めを会葬者にもあたえるのです。讃美歌は音楽をともなった祈りです。通常の祈りは誰かが祈り、その祈りにアーメンをもって信仰の心を合わせます。会衆賛美は皆で一つの歌詞としての祈りを一緒に歌いながら祈っているのです。ですから歌詞がとても大切です。その歌詞をつくった同じ公同の教会の祈りの心を理解しながら自分自身の信仰の言葉として心を合わせて共に歌い祈るのです。教会は時代が変わり言葉が変化する中で新しい歌を主に向かって歌い(詩編33、40,96、98,144篇ほか)絶えることなく新しい讃美を生み出し続け、その時代の人々にわかる言葉で祈りの讃美を紡ぎ出すのです。祈りを向ける相手は神のみです。人に聞かせるためや自分自身に酔いしれるためにではありません。うまいも下手もありません。心も頭も体も全身を神に向け献げる「讃美のいけにえ」(ヘブライ13:15)なのです。

礼拝について⑪「神の招きによって始まる礼拝」

 

日本語「教会」の原語ギリシャ語エクレシアの意味は「~から呼び出された者たち」という意味で当時の「市民集会」を指す言葉でした。聖書記者たちは神の民の集まりを指す言葉として他の類似の言葉ではなくエクレシアを用いました。教会はまさに神がこの世から呼び出した民であるからです。礼拝の始まりに語りかけられる「招きの言葉・招詞」はこのことを表します。招詞は聖書から神が民に呼びかけている聖句が用いられます。礼拝は神の主導、招集によってなされるのです。礼拝の主催者は神ご自身です。神がイエス・キリストという宥めの供え物を備えてくださり御霊が私たちを導いて礼拝へ連れてきてくださいます。礼拝共同体である教会はこの神の救いの声に応えます。礼拝はそのようにしてのみ始まります。礼拝が人間の方の宗教心や備えによってつくりだされるかのような誤解は礼拝を単なる人間の集まりや講演会のようなものとしてしまいます。神がまず先に私たちを呼び出し礼拝へと招き連れてきてくださるのです。神の招きと救いの先行性が教会を教会とし、礼拝を礼拝とするのです。「神奉仕」という言葉があります。神がまず私たちにキリストにあって仕えてくださったという驚くべき言葉です。その神に私たちも応え、お仕えするのです。この順序を覚えることは大切です。神の招きに真摯に応えるという信仰の心が礼拝の姿勢、在り方、私たちのなすべきことを形作るのです。

礼拝について⑫「神とのコミュニケーションと言行一致」

 

言葉と行為・態度は結びついています。その言葉にふさわしい行為・態度があり、同じようにその行為・態度にしっくりくる言葉があります。例えば「おはよう」という日常的、一般的な挨拶をしながら相手を抱きしめるという行為は日本ではそぐわない行為です。言葉で「愛しています」と言いながら、相手の顔を見ようともしないならば無礼なことです。言葉と行為・態度は一致した一つのメッセージを発することによって相手との正直で偽りのないコミュニケーションをなしています。もし言葉と行為がバラバラであったら言葉は空言になり、行為は見せかけとなり、その関係が壊れていることを示しています。神の言葉はキリストにある行為(受肉・十字架・復活)という一致したメッセージで私たちとコミュニケーションを持ってくださり、私たちはその神の言葉と行為に、自らの一致した言葉と行為によって応答します。礼拝は神とのコミュニケーションです。そのことを正しくわきまえてさえいれば、礼拝の備え、礼拝前の態度、礼拝中の在り方、礼拝後の姿というものは自ずとわかります。言行一致という言葉があります。生ける神の言葉と行為に応える者として自らも信仰にあって言行一致である者、それが礼拝者です。

礼拝について⑬「沈黙と前奏」

 

礼拝式順としての前奏をどのように理解するのかは諸説あります。前奏は礼拝式の中に入るのか、その前の備えなのか、という議論があるのです。歴史的には5世紀頃から礼拝の開始を告げる鐘が用いられており、13世紀頃からオルガンが教会堂で用いられるようになり、礼拝の開始を告げるという意味合いで前奏がなされるようになったのではないかとも言われています。ところによっては前奏を礼拝開始時間ではなくその前の備えの時にする教会もあります。しかし、そのことにあまりこだわることのは意味がないでしょう。大事なことは神を拝む礼拝への導入として前奏がなされるということです。オルガニストは礼拝の導入として歴史の中で選ばれた礼拝にふさわしい教会音楽を準備します。週日の祈りの時、オルガニストのためにお祈りください。司式者がオルガニストに開始を告げて前奏が始まります。その間は黙祷して神に向かう心を整えます。私たち焼津教会の礼拝前、前奏時はこれらがよくなされています。とても幸いなことです。前奏の時に時に書き物をしたり、週報を見たり、話をしていたりすると礼拝の心が定まらず自分だけでなく、隣人の礼拝の心備えも妨げます。必然的に聖書、讃美歌、献金の備えなどは前奏前にしておくことになるでしょう。前奏の沈黙の中に聖霊は豊かに働かれ、私たちを整えてくださるのです。

礼拝について⑭「讃詠」

 

前奏、招詞の後には焼津教会では讃詠を歌います。さて、讃詠とはどういう意味でしょうか?他の讃美歌とは違うのでしょうか?毎週歌っている歌詞を思い起こしてみてください。どのような特徴があるでしょうか?そう、「聖なる、聖なる、聖なる」が繰り返されるという特徴がありますね。元のラテン語の名称はSanctus(サンクトス)です。サンは聖です。イザヤ書6章には「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」とあり、黙示録4章にも同様の表現があります。この神の臨在に際して讃美された御言葉が旋律をともなって歌われるようになったものです。伝統的にはローマ教会、ギリシャ正教会ともに聖餐の前に歌われました。讃美歌第二編85にその原型として14世紀のローマ教会典礼讃美歌が訳されています。私たちが用いている546や同様の言葉をモチーフにした66などは19世紀の比較的新しいものです。これを讃詠と訳した経緯はよくわかりません。仏教で詠讃という言葉があります。詠は「詩歌を声を長く引いてうたうこと」です。歌い方からこの漢字を当てはめたのでしょうか。ちなみにギリシャ正教会では三聖頌と呼びますが、この方が意味に即しているかもしれません。大事なことは招詞での神の招きに応えて、神との礼拝での出会いに感謝して聖なる神を讃えるということを理解し、意識しつつ歌うことです。

礼拝について⑮「交読詩編と悔い改め」

 

礼拝式の中での交読詩編の位置づけは悔い改めです。神の呼びかけ(招詞)に御名を讃えて(讃詠)、そこで私たちに起こるのは「悔い改め」です。「神の招き」⇒「神への讃美の応答」⇒「悔い改め」というのが礼拝の始めの基本構造です。6,32,38,51,102,130,143の七つが悔い改めの詩編です。焼津教会では詩編51篇のみを用いています。これは戦後の吉祥寺教会の礼拝式の影響からのようです。また、カルヴァン、ルターら宗教改革者が51篇を好んだとは言われています51篇を繰り返し用いることの一つの意味はあります。七つの詩編を用いるのもひとつのありかたです。ただし、実は交読文という形式そのものが歴史的には戦後の日本の教会で行われるようになったもののようです。近年はそのことから交読文を礼拝式にいれない教会もあります。その場合は悔い改めとして十戒を用います。これは宗教改革者の式文などでは悔い改めは十戒の唱和を用いるという歴史的経緯に沿ったものです(焼津教会の現行式文での礼拝式後方に十戒を置くことの意味については後述します)。どの形式をとるかよりも大事なことは悔い改めがなされることです。ただ口でなぞるようにではなく、聖書の言葉を自分の言葉としての悔い改めの祈りとして、そして公同の教会の悔い改めの言葉として口に出すことです。

礼拝について⑯「聖書」

 

礼拝式には様々な項目があります。どの部分ももちろん大切ですが、もし礼拝を極限まで短くするとして、絶対にこれだけはなくては礼拝が成立しない、というものは何でしょうか?それは「聖書、説教、祈り」です。礼拝の他の項目はすべてこの三つのどこかに入ります。一方、宗教改革期の礼拝式には「聖書」という項目がないものがあります。どういうことかというと「説教」と記されている箇所でまず始めに聖書が朗読されるのが当然のことだったので、あえて記さなかったのです。つまり、聖書と説教は別々にではなく一体化したものとして捉えられている、言い換えれば聖書なしの説教は成り立たないということを意味しています。聖書は記す必要もないほど礼拝の中心であると言うことです。現代のように誰でもが本としての聖書を持っている時代と違って、昔は聖書は教会の礼拝で聴き取ることでしか、聞くことができませんでした。朗読者もそのことを重々心得ていましたし、聞く者もここでしたか聞けない御言葉に全身を耳にして臨みました。そして、引き続いて語られる説教を今ここで語られる神の言葉として、聖書同様に耳をそばだてたのです。私たちも同じです。

礼拝について⑰「礼拝のことば」

 

招詞、聖書、讃美歌、祈祷、祝福、と礼拝の中では言葉が用いられます。その言葉は現代の日本人にわかる言葉が使われます。旧約の時代も、新約の時代もこれは当然のことでした。わかる言葉で聖書も記され、礼拝もその場所、時代でわかる言葉が使われました。新約時代の共通語であったギリシャ語は、後のローマ世界に教会が広がるとラテン語へ翻訳されました。しかしその後、約1千年間、教会では言葉が変化し、異なっていってもラテン語だけが使われました。礼拝の言葉は分からなくなり。聖書も説教も讃美歌も祈りも古文ラテン語ができる人の独占物になり、会衆には目や感覚に訴えるための様式美やきらびやかさ、楽器だけが幅をきかせるようになっていきました。宗教改革者たちは、皆こぞって、聖書を自国語に翻訳しました。讃美歌も祈りも説教も他の礼拝の言葉も、その時代、その場所の人々にわかる言葉を用いることによって礼拝を神の民すべてのものへと取り戻したのです。以来、このことは継続しています。聖書も讃美歌も、礼拝の言葉も変化するのに合わせて新しい言葉にされるのです。今の時代に通じる言葉で礼拝を献げ、福音を語り聴き、讃美し祈ることが教会の礼拝宣教の姿勢なのです。

礼拝について⑱「レント(受難節、四旬節)」

 

レント(受難節)はイースター(復活日)の前の期間40日間をキリストの荒野の試みである40日間にちなんで受難を覚え悔い改めの時として過ごすものです。四旬節というのはこの日数から、受難節というのは受難という意味からの日本語訳です。起源としては記録では2世紀まで遡ります。その頃はイースターの受洗志願者への教育期間としての性質がありました。そして遅くとも5世紀には多くの教会でレントは大切にされるようになりました。今年のレントは2月26日~4月11日となりますが指折り数えると46日間あります?なぜかというとその期間から復活日である日曜日は除いて日数計算をするからです。レントという言葉は昼が少しずつ長くなっていくことを表す古代英語lengtenが変化したものです。春が近づくのです。クリスマスが冬至であることを以前お伝えしましたが、教会暦がキリストの御業に根ざしているのはもちろんですが、人工の光が乏しい時代の教会が日照時間に密着した生活をする中で世の光であるキリストを待ち望む信仰の姿を垣間見るようです。毎年、イースター、レントは日程が替わります。ユダヤ歴を使うからです。ユダヤ歴ではキリストの受難と復活の時は出エジプトの過越の祭の時にあたります。このことから旧約聖書では過越の子羊として指し示されていた方が神の子羊・十字架のキリストであるということが分かるのです。これは旧約と新約の関係でとても大切なので教会はレント、イースター、ペンテコステに関してはこのことをそのまま示すユダヤ歴を用いるのです。十字架のキリストをおぼえるレントの時を代々の教会と共に歩みましょう。